太平天国の乱とは?その評価と歴史的経緯

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太平天国の乱(1850-1864)とは清朝統治下で広西省から始まり全国的な規模に発展した大反乱です。反乱を始めたのは上帝を信仰する拝上帝会という集団であり、彼らは国号を「太平天国」としました。

1章:太平天国の乱とは

上帝会を率い1850年広西省桂平県金田村で挙兵した洪秀全(1814-64)は、1851年3月「天王」に即位し国号を「太平天国」としました。彼らが起こしたこの大反乱は当時存在した18省のうち17省にまで及ぶ規模になりました。太平天国の乱は1864年に太平天国の本拠地であった天京(南京)が陥落したことをもって一応の終息をみせたとするのが一般的です。

太平天国の専門家である菊池秀明が書いた一般向け概説書に当時の太平天国に対する認識が2つ示されています。1つは1853年頃太平天国の乱に関する最初の情報を日本へ伝えたにっぽん音吉による認識です。

音吉によると、太平天国は満洲人王朝である清朝にたいする漢民族の抵抗運動で、髪形を明代の長髪にもどすなどの改革をおこなっていた。この運動が発生した原因はアヘン戦争をきっかけとする中国の貧困にあり、腐敗した清軍は各地で敗北をかさねていた。また太平天国は財産を均分するなどの政策で庶民の支持を集めており、ヨーロッパ人にたいしても友好的な態度で臨んでいるという[1]

もう一つは1862年に上海を訪れた高杉晋作らの認識です。文中に出てくる長髪賊とは太平天国側の人々を指します。

長髪賊ははじめ明朝の末裔を名乗っていたが、現在はもっぱらキリスト教を掲げて愚かな民を従わせている。いうことを聞かない者は殺し、匪賊を集めたり、男たちをとらえては兵隊にして、乱暴や狼藉を働いている。にもかかわらず彼らの勢いが盛んなのは、ひとえに清朝が衰えて暴臣が権力を握っているからだ[2]

このように当時から太平天国の乱に対して当時の日本でも互いに異なる認識が示されていました。では、中国ではどうだったのでしょうか。宮崎市定は次のように書いています。

太平天国は清朝時代には長髪賊、髪匪、粤匪などとよばれ、単なる一部不平分子の清朝支配に対する反抗にすぎぬと取扱われていた。然るに民国以後、それは辛亥革命の前段階をなすものであり、中国人民全部の希望を代表する革命運動であるとして、いわゆる農民起義の最大なるものと再評価されるようになった[3]

民国時代以降も、アヘン戦争によって封建社会から次第に半封建半植民地の社会になった中国の社会状態を打破しようとする中国人民の反帝国主義・反封建主義の闘争が、中国近代史の主軸になるのだという中国共産党の「革命史観」[4]のもと、太平天国の乱は中国のみならず日本の研究者のあいだでも革命運動の先駆として高い評価を受けていました。

しかし、そうした見解は日本の学界では1960~70年代の段階で、宮崎[5]や市古宙三[6]らによって批判されています。近年は太平天国の乱が持った破壊的側面の批判が多くなされています[7]。太平天国の乱に対する認識・評価は当然のことながら時代や人によって異なるのです。

1-1:太平天国の乱の時代背景

では清朝において太平天国の乱が起こった19世紀とはどのような時代だったのでしょうか。少し遡って18世紀から見てゆきましょう。18世紀の清朝では活発な移住と土地開発によって人口が急速に増加しました[8]。そうした移住者は成功者と失敗者に分かれ良い農地や商売の利権は成功した一族におさえられ、とくに後から移住した者にとっては、社会的上昇の可能性が閉ざされてゆきました。そうした社会矛盾の結果として大規模な反乱になったのが、白蓮教徒の乱(1796-1804)であり、清朝を揺るがす大反乱になりました[9]

アヘンの問題も深刻でした。アヘンの密輸が巨額になると清朝から銀が流出していきましたが、納税をする際には銅銭を銀に換えるので、銀が不足した場合銀の銅銭に対する相場が上がり、人々の納税が困難になることが危惧されていました[10]

アヘン戦争(1840-42)後結ばれた南京条約によって、清朝はイギリスに対し多額の賠償金を支払うことになりました。その軍費や賠償金の負担は農民にかかってくることになったのです[11]。以上のように19世紀の清朝は不安定な状態になっていました。

では、太平天国の乱がはじめに起こった地方である広西の状況はどうだったのでしょうか。広西でも移住と格差による社会矛盾が起こっており、客家語という方言を話す漢民族のサブ・グループである客家も厳しい状況に置かれていました[12]。菊池は19世紀の中国社会がかかえていた問題点を3つ指摘しています。

  1. 専制体制がもたらす硬直した地方統治
  2. 民族間あるいは同一民族内のサブ・グループ間の対立の激化
  3. 民衆宗教や思想のレヴェルに現れた社会の閉塞情況[13]

太平天国の乱が起こった時代背景には以上のような社会状況があったのです。

では、太平天国の乱を起こした拝上帝会を率いた洪秀全という人はどのような人物だったのでしょうか

洪秀全は1814年広東省花県官祿㘵村で生まれました。彼は前述した客家の出身です。洪秀全は満14歳となった時から科挙を受験し、受験に失敗し続けていました。1837年再び科挙の受験に失敗した洪秀全は失意の中熱病に倒れ、その熱病の最中夢を見ることになります。

洪秀全は夢の中の宮殿で出会った老人からこれで悪魔を滅ぼすようにと剣を授けられ、印璽を受け取りました。そして洪秀全は夢の中で彼が兄と呼ぶ中年の男性に助けられつつ、悪魔と戦ったのです。夢の中で印璽を受け取ったのは天命を受け取ったことを正当化するものであり、これは挙兵に踏み切った後に付加された「神話」だと考えられています[14]。このように後世に伝えられる洪秀全の夢はかなりの脚色が加わっていると考えられますが、ともあれ洪秀全は夢から醒めました。

そして1843年、それ以前に入手していた『勧世良言』というプロテスタントのパンフレットを読んだ洪秀全は夢の中で出会った老人がキリスト教の神エホバであり、自分はエホバから偶像崇拝を打ち破る使命を受けたと確信して、自ら洗礼を行って上帝教という宗教を興しました[15]。上帝教とはキリスト教の影響を受け、上帝(ゴッドの翻訳)を崇拝するもので、洪秀全の儒教的教養と中国の民間宗教が混合したものでした。詳しくは第2章で見てゆきますが、洪秀全がのちに出会った楊秀清と蕭朝貴というエホバとイエスに乗り移られた2人の信徒が洪秀全をエホバの次子、キリストの弟として絶対的権威を強調すると共に、彼が来るべき新王朝の君主であると主張したことによって拝上帝会の活動は宗教運動から革命運動に変質しました[16]。やがて拝上帝会は武装蜂起し、太平天国の乱を起こすことになります。

1-2:太平天国の主張

1850年に金田村で蜂起した洪秀全は1851年に国号を「太平天国」としましたが、太平天国の主張とはどのようなものだったのでしょうか。

前述のように拝上帝会の活動は宗教運動から革命運動に変質しました。革命運動を行う以上、拝上帝会、そして太平天国が掲げたのは清朝打倒でした。

また太平天国は太平天国の改革プランである『天長田畝制度』に見られるように、いにしえの公平で平和な世界である大同ユートピアを社会制度として実現しようとしていました。しかしながら、すべての男女に耕地を均等に割り当てる公有制を説いた『天長田畝制度』では官と民との関係が平等ではなく、社会の現実ともかけ離れていたため実現はされませんでした[17]

1-3:太平天国の乱のその後の影響

勢いを増した太平天国の乱に清朝の官軍は太刀打ちできませんでした。代わりに太平天国との戦いで功績を上げたのは曾国藩が組織した湘軍や李鴻章が組織した淮軍、ウォードやゴードンが率いた常勝軍です。曾国藩や李鴻章はこの太平天国の乱での活躍もあり台頭してゆくことになります。

太平天国は数千万の犠牲者を出した反乱であり、とりわけ江蘇・浙江・安徽・江西といった戦乱の中心となった地域では大きな被害が出ました。

かつて、太平天国の乱はのちの辛亥革命の前段階として評価されていましたが、そのことについては1章のはじめで扱いましたので割愛します。

2章:太平天国の乱の経緯

では太平天国の乱はどのような経緯をたどったのでしょうか。洪秀全が上帝教を創るところまでは第1章で見ましたので、上帝教を創った後の経緯を見てみましょう。

2-1:郷里での布教失敗と広西での布教

布教のごく初期に入信したのは、同郷の客家人である馮雲山と洪秀全のいとこである洪仁玕でした。偶像崇拝を禁止した洪秀全は廟にまつられた孔子の位牌なども撤去しようとしましたが、洪秀全のこうした行為は地元民からの非難を浴びるものでした。結局洪秀全の郷里での布教は行き詰まり、洪秀全は馮雲山たちと布教しながら広西省まで行くことになりました。

洪秀全は同族を頼って貴県という所に行き、客家の間に上帝教を広めていきました。まもなく洪秀全は帰郷しましたが、馮雲山は隣の桂平県にある紫荊山地区で布教を続け、地元の客家の人々の中に信者を増やしていきました。当時の広西省は1-1で確認したような状況でした。馮雲山はそうした状況のなか上帝による救いを説き、客家人を中心に数県の範囲におよぶ二千人の信者を獲得しました[18]

帰郷した洪秀全は、その後洪仁玕とともに広州の宣教師ロバーツの教えを受けに行きました。洪秀全はこの時初めて聖書を読んだのですが、経済的庇護を目的にしていると誤解されて洗礼を受けさせてもらうことはできず[19]、再び広西に戻って馮雲山と合流しました。洪秀全たちは偶像破壊運動を起こし、噂を聞いた下層民が大挙して入会する一方で地元の有力者と対立しました[20]

そうした中、紫荊山の信徒の中で、楊秀清という青年に上帝が、その友であった蕭朝貴にイエスが乗り移り予言や命令を発するようになりました。この2人が洪秀全をエホバの次子、キリストの弟として絶対的権威を強調すると共に、彼が来るべき新王朝の君主であると主張したことによって拝上帝会の活動は宗教運動から革命運動に変質することになります[21]

2-2:金田村での蜂起から南京攻略まで

1850年に入ると武装蜂起の準備が始まり、各地にいた上帝会の集団が紫荊山麓の金田村に結集し、その過程で様々な政治勢力と衝突しました。1950年12月潯州府城の副将李殿元との戦いに勝ち、洪秀全が金田村に到着しました。これで拝上帝会の金田村への結集はひとまず完成したといえます[22]

1851年1月から清軍との本格的な戦いが開始され、3月洪秀全は「天王」に即位し、国号を「太平天国」としました。彼らが最初に占領した城は永安州でした。太平天国は永安州で王朝体制を創建し統治体制を固めていきました[23]。それから太平天国軍は馮雲山の戦死など数々の犠牲を払いつつも、勢力を拡大しつつ転戦を続け、1853年湖北省の武昌を陥落させ、つづいて虐殺を行いながら南京を占領し天京と改称してここを太平天国のみやことしました。

2-3:北伐の失敗から天京陥落まで

天京をみやことした太平天国でしたが、1855年北京攻略を目指して進軍した太平天国の北伐軍は援軍或いは後方支援に関する対応の杜撰さや現地司令官に与えられた指揮権の問題から敗北し[24]、全滅しました。また翌1856年天京で内部分裂の結果4万人が殺害された天京事変が起こり、太平天国の勢力は衰えました。

清朝は官軍だけでは太平天国を鎮圧することができず、郷紳に団練・郷勇の編成をよびかけました。その中で頭角を現したのが、曽国藩が組織した湘軍と李鴻章が組織した淮軍です。湘軍と淮軍は太平天国軍と激しい戦いを繰り広げることになります。

また列強は当初太平天国の乱に関しては中立の立場でしたが、アロー戦争を経て1858年に天津条約、1860年に北京条約が結ばれると次第に清朝を支持するようになりました。アメリカ人ウォードやイギリス人ゴードンが指揮する常勝軍が組織され、太平天国を東から圧迫し、西方からは湘軍が太平天国に迫って天京を包囲しました。

1864年6月洪秀全は天京で死去し、翌月天京は陥落、太平天国は滅亡することになります。その後捻軍に合流して戦い続けた勢力もありましたが、1868年には鎮圧されました。

3章:太平天国の乱に関するおすすめ本

菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』(山川出版社)

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太平天国の専門家による一般向け概説書で、太平天国における異文化受容と異文化間のすれ違いに着目し、太平天国の乱についてコンパクトに解説しています。

吉澤誠一郎『清朝と近代世界――19世紀』(岩波書店)

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19世紀の清朝を扱った概説書で、第2章で太平天国の乱に触れています。手に取りやすい1冊であり、19世紀の大きな流れの中から太平天国について知りたい人におすすめです。

脚注


[1] 菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』(山川出版社)2頁

[2] 菊池、前掲書3頁

[3] 宮崎市定『宮崎市定全集16近代』(岩波書店)75頁

[4] 若松大祐「実事求是の態度と中華民国史の研究――現代中国の唯物史観における方法的転回」(社会システム研究)3頁

[5] 宮崎市定、前掲書75-116頁

[6] 市古宙三『近代中国の政治と社会(増補版)』(東京大学出版会)

[7] 菊池秀明『清代中国南部の社会変容と太平天国』(汲古書院)223頁

[8] 吉澤誠一郎『清朝と近代世界――19世紀』(岩波書店)21頁

[9] 以上、吉澤、前掲書24頁

[10] 吉澤、前掲書45頁

[11] 市古、前掲書3-4頁

[12] 菊池『太平天国にみる異文化受容』32-36頁

[13] 菊池『清代中国南部の社会変容と太平天国』337-340頁

[14] 小島晋治『洪秀全と太平天国』(岩波書店)34-35頁

[15] 菊池『清代中国南部の社会変容と太平天国』236頁

[16] 菊池秀明『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』(汲古書院)55頁

[17] 菊池『太平天国にみる異文化受容』26頁

[18] 菊池秀明『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』44-45頁

[19] 菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』44頁

[20] 菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』49頁

[21] 菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』55頁

[22] 菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』67-69頁

[23] 菊池『金田から南京へ―太平天国初期史研究―』135-138頁

[24] 菊池秀明『北伐と西征―太平天国前期史研究―』(汲古書院)551-552頁

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